2021年01月08日

米軍が動員された暴動6件

 military.comがトランプ支持者による連邦議会議事堂侵入にちなみ、連邦軍兵士が米国内の騒乱に派遣された6つの事例を紹介しています。

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 連邦軍兵士が国内の法執行活動でどう活用されるかは2つの法律、1878年の民警団法(the Posse Comitatus Act)と1807年の反乱法(the Insurrection Act )によって規定されます。これらの法律は、自然災害、テロ攻撃、伝染病や国内の暴力を含めた連邦軍兵士がアメリカの国土に展開できる状況を厳しく指示します。

 民間人の騒乱の抑制においては、軍隊は何度も動員されていて、それは州軍だけではありませんでした。数少ない実例を紹介します。

 
1863年のニューヨーク市徴兵暴動


 南北戦争は合衆国が戦争を戦うために民間人を強制的に軍隊に入れた米国史上最初のときでした。おどろくことではなく、ライフル銃と銃剣で戦うことに関心がない人たちはそうすることを嫌いました。さらに悪いことに、金持ちのアメリカ人は2020年なら約7,000ドルにあたる300ドルを支払って徴兵を回避できました。

 ニューヨーク市徴兵暴動はいまでも米国史上最大の民間人の騒乱です。鎮圧するため(おそらくマンハッタンの半分を救うため)、知事はニューヨークの民兵隊を動員するだけでなく、海兵隊を動員しなければなりませんでした。

 暴力はとてもひどく、リンカーン大統領(President Lincoln)はゲティスバーグ(Gettysburg)で戦いを終えたばかりの歴戦の古参兵も秩序を回復して維持するためにニューヨークへ送りました。

1932年の「ボーナスアーミー」解散


 ニューヨーク市徴兵暴動ほど破壊的でも命に関わるほどではないものの、1932年のボーナスアーミー攻撃は政府の支援、とにかくも彼らに約束された支援を求める復員兵の群を一掃するために連邦軍兵士を活用したことで知られました。

 1929年の株式市場の暴落に引き続き、第一世界大戦を戦った復員兵の状況はすぐに悪いから、より悪いへ進みました。議会は彼らに現役であった一日につき1ドル、最大500ドルの現金支給を約束しました。2020年の通貨できっかり9,300ドルで、それは大恐慌を生き残るに十分すぎるました。

 ほとんどの復員兵にとって、その金は何年間かにわたり支払われることになっていましたが、大恐慌が本格的になると、誰もがすぐに金を必要としました。復員兵はワシントンに行き、支払いを提唱するために「ボーナスアーミー」という活動グループを結成し、議会議事堂に野営しました。

 ハーバート・フーバー大統領(President Herbert Hoover)の司法長官は警察に彼らを排除するよう命じましたが、計画どおりに行きませんでした。フーバーはすぐにこの事件を知り、ダグラス・マッカーサー大将(General Douglas MacArthur)に第3騎兵連隊の戦車にこの仕事をするよう命じました。陸軍は催涙ガスを打ち、銃剣をつけてボーナスアーミーに対して前進しました。復員兵が議会議事堂から退却すると、米陸軍は彼らの野営地を燃やしました。

1967年のデトロイト12番街の暴動


 ニューヨークの1863年の徴兵暴動以来、2番目に大きい暴動が1967年にデトロイトで起き、合衆国に到来した騒がしい年月の先駆けとなりました。

 その年、約160件の人種暴動が合衆国全土で起き、「1967年の長く暑い夏」との異名をとりました。違法な時間外バーへの警察の手入れが国内の最も暴力的で破壊的な暴動に転じたデトロイトほど破壊的な反乱はありませんでした。

 5日間にわたり、デトロイト市民は街中で暴徒と化しました。当時の知事ジョージ・ロムニー(George Romney・ミット・ロムニー上院議員の父親)がミシガン州の州軍を動員することを選ぶほど猛威をふるいました。それすら機能しなかったので、リンドン・ジョンソン大統領(President Lyndon Johnson)は第82、第101空挺部隊を動員しました。

 暴動の結果、43人が死に、2,000の建物が破壊されました。

1967年のニューアーク市の暴動


 これは特に暴動がニューアーク市に及ぼした破壊のレベル、街が完全に復旧されなかったレベルのために 、1967年の「長く熱い夏」のもう一つの重大な騒乱です。

 第2次大戦後、中間層の白人アメリカ人が都市部を去ると、黒人アメリカ人がこれらの街で広範な人種差別と偏見に直面しました。満足できる仕事を住む場所をみつけるのは、そういう機会があったとしても、より難しくなりました。

 黒人のニューアーク市の欲求不満は街が貧困へ陥ると爆発しました。市の政治家と警察はほとんどが白人のままでした。欲求不満は黒人のタクシー運転手が二重駐車したパトカーを追い越したために白人警察官によって意識不明になるまで殴られ、警察署に引きずって行かれたとき頂点に達しました。彼は警察官への暴行で起訴されました。彼が警察の拘束下で殺されたとの噂が広まりました。彼は死んでいませんでしたが、ひどく殴られていました。

 警察の蛮行に対する抗議がはじまり、すぐに広範な暴動と略奪に転じました。州軍が派遣されたあとですら、暴力は続き、1千万ドル(今日の7,760万ドル)の損害と26人が殺され、数百人が負傷するものとなりました。負傷した約40人のほとんどはニュージャージー州の州軍でした。

1968年のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士(Dr. Martin Luther King, Jr.)殺害


 1968年4月4人、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士がテネシー州、メンフィスのモーテルの部屋の外で撃たれて殺されました。殺害という言葉が合衆国全土に拡がると、暴動が起こりはじめました。ボルチモア、シカゴ、ナッシュヴィル、ニューヨーク、ローリー、ノースカロライナとワシントンで暴力が噴出しました。

 至る所で、何千もの建物が破壊され、何百人の人々が殺され、数千人以上が逮捕されたとみられます。対応の中で、国中の市長が街に秩序を取り戻すために、それぞれの州兵を動員しました。首都で法の統治を復活させるのに、南北戦争以来の最大の軍隊の占領にあたる13,600人を超える武装兵を必要としました。

1992年のロサンゼルス暴動


 抗議を伴う警察の蛮行への人々の対応が1992年の暴動を引き起こしました。ロス市警の警察官4人が、交通渋滞で停止したあと、バイカーのロドニー・キング(Rodney King)を殴打した件で過剰な武力行使で無罪判決を受けました。評決が発表されると、ロサンゼルスは32平方マイルにわたり暴動が起こりました。

 最後には、秩序を回復し、再びロサンゼルスを一つに戻すために、ロサンゼルスの法執行官全員とカリフォルニア州軍兵士10,000人と合衆国海兵隊数百人を使いました。

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 アメリカでは軍隊は民間社会を支援するためのもので、自ら主導したがりません。治安維持のためであっても、武力行使は最小限にしようとします。ブラック・ライブズ・マター運動は一部は暴徒化しましたが、多くは平和的抗議だったから、軍は前に出ませんでした。それでも、暴動がひどくなると州軍、連邦軍が動員される場合があります。

 暴動の原因のほとんどは人種差別なのは、やはりと思うものの、未だに解決しきれないことに焦燥感を感じます。

 記事で注意を引くのはミット・ロムニー上院議員の父親がミシガン州知事で、デトロイトの暴動を経験していることです。連邦を破壊しそうなトランプ大統領を早くから批判していたのは、父親の経験を共有しているためかもしれません。

 今回のワシントンでの議会議事堂占拠では4人の死者が出ましたが、参加者が黒人ならさらに死者が増えたはずだとの指摘が出ています。参加者のほとんどが白人だったから、警察官は発砲をためらいました。人種差別は本当に根深い問題です。
posted by スパイク通信員 at 17:07| Comment(0) | 日記